こんにちは、岩崎将史です。
先日、Twitterで下記の呟きが流れてきました。
友人にも教職関係が多いので、結構反響をいただきました。
僕の印象からすると「にわかには信じがたい」です。
多分、嘘だろう。嘘であってほしい。嘘であるべきだ、的な。
真意を確認する術はないのですが、事実だとしたら(その可能性は大いにあり得るわけですが)、これはもう何とも「日本は終わってるな」という言葉しか出てきません。
多分、多くの人が「時代遅れ」と感じる事柄かと思います。
が、この「時代遅れ」というワードは、時代遅れの人からすると感覚的に全く理解ができないどころか、「新しいもの」=「軽薄で洗練されておらず、不完全なもの」という認識をお持ちで「最終的には自分の価値観が勝つ」みたいな感覚なのではないかと、恐怖することが稀にあります。
僕の場合は幸いながら、こうした考えの人と普段から接することは少ないのですが、少ないながらも「居ることは居る」ので、大きな組織である学校という社会では、こうした全時代的な人が未だ生存していることがゼロではないのかも、とは思えるわけです。
同じような大きな組織でも、民間企業となると「常に生死をかけた戦い」にポジションを置いているところはそれなりに柔軟なのだろうと想像するのですが、制度的に守られている業界だと未だにありえるのかもしれません。
という、この辺りは100%想像に基づく仮説ですが。
で、この「時代遅れ」という感覚が、ある世代やある価値観の人たちにはどうにもスムーズに理解できないようです。
この情報通信革命中の時代に「ちょっと前がどれほど時代遅れなのか」という僕が普段感じている考え方を解説してみたいと思います。
昭和生まれの人たちを江戸時代生まれに例えると
僕の生年は昭和48年です。
西暦にすると1973年。
ここから100年マイナスすると、1873年になります。
1873年がどんな時代だったかと言うと、
明治6年年です。
上の写真は「岩倉具視使節団の帰国時の写真」。
そんな時代です。
今、学校や大きな組織でトップを勤めている年齢層ってどの辺りでしょうか?
50〜60代?
だとすると、1860年頃の生まれということになります。
1860年と言えば「桜田門外の変」が起こった年。
水戸&薩摩藩士により井伊直弼が襲撃、暗殺された年です。
つまり「江戸時代」です。
現代は大正時代
翻って、今年は2019年。
同じようにマイナス100年してみましょう。
1919年は大正8年です。
どんな時代だったかを調べてみると、
- ソビエト社会主義共和国樹立
- 第一次世界大戦の終結によるパリ講和会議が開催 (中国山東省に対する日本の要求承認)
- 日本は関東軍設置 (今の関東じゃないよ。旧満州だよ)
- 食品工業株式会社設立 (現キューピー)
だ、そうです。
国が滅び、新たな国が生まれ、世界が激動していた時代。
生き延びるために世界と戦っている時代でした。
江戸時代と大正時代の価値観がぶつかる現代
で、何が言いたいかというと、
「江戸時代にお産まれになった、当時の価値観のまま大正生まれの人に、その価値観を教養して居る人、居ませんか?」
と言うことです。
江戸時代生まれでも、実に先進的だったり、柔軟に思考を変えて活躍した人材は沢山います。
そのような人たちは、全然大丈夫ですし、尊敬しています。
現代に置き換えても一緒。
僕も勝手にメンターと思っている70代以上の方もいます。
いや、むしろ年配の人の方が、たくましさや強さを感じる場合も多いです。
そういう人は時代、国を超えて柔軟に対応しています。
武士の時代から、大量火力や艦船の時代を経て、航空機の時代がやってきます。
今を大正8年とするなら、昭和になるまであと8年です。
例えると武士の時代に産まれた人が、航空機の時代の人を育てなければいけない時代、と言うことです。
情報通信革命後の世界をみているか
何回も書きますが、年配の人を非難しているのではありません。
僕ももう良い年齢ですし。
100年前の当時も、江戸時代に産まれた人が、大正生まれの人を教えていたでしょう。
ただ、その時に江戸時代の価値観、技術をそのまま教えていたのか?というと違うと思います。
みんな明治になり必死に新しい技術や学問を学び、指導者になっていったと思います。
江戸→昭和と同じような、場合によってはそれ以上の変化が起こっているのが、1970年代からのPCの登場と90年代からの情報通信革命と言われています。
僕が中学生の頃は、北京といえば「整備されていない道路を大量の自転車が人民服で通勤している」という映像が頻繁に流れていましたが、今や別世界。
そりゃそうです。同じような期間である、明治初期と昭和になろうとする時代を日本を比べたら「全く違う」に決まっています。
自分の学んできた専門技術や姿勢を伝えていくことは事はとても重要だと思います。
が、時代的背景に基づく文化風習を「強制する」という事に関しては、良く考える必要があると思います。
「いや、自分はしっかり見えている。女子のお茶汲みは、この先とても需要だ」
と考えているなら、合理的な論考を是非とも伺ってみたいです。
残すべきものと、創り出すべきもの
「古の価値観や風習、技術にも大切なものはある」
それはそのとうりです。
僕も大切にしている古いものは沢山ありますし、実際に日本の伝統を繋ぐお手伝いもしています。
作編曲技法やオーディオエンジニアリングにおいても、古典的な本質のノウハウを何とかして残していきたいと考えています。
それらを守るためにも改善すべきところは改善していかなければなりません。
少なくとも「雇用機会均等法」「同一労働同一賃金」などを進める今の国全体の価値観と、ツィートの件は、どう考えても一致しないので「学校」という公的な機関のなかで行われているのはいかがなものか、と思うわけです。
なので「にわかには信じがたい」なんですよね。
ただ、嘘、もしくは話を盛っていたとしても、こう言うことを考えさせられたり、僕もブログに書いてみようと思えたので、それはそれで良い機会を頂いたのかなと。
高度経済成長期と現代は、明治維新と昭和初期くらいの距離感
今だに「高度経済成長期」や「バブル」ときの価値観で、現代を語る人がいます。
高度経済成長期を幕末、明治維新と捉えるなら、今は昭和になろうとしている時代です。
確かに江戸時代は素晴らしい時代でもあったと思います。
内燃機関はないので、空気も水も綺麗だったと思います。
移動は徒歩か馬か船。
ただ、その時のノウハウをそのまま伝えても「使えない」という方が自然です。
本質的には大切な事が沢山あるとは思います。
そして本質的に大事な事であれば、「現代の方法」でも伝えらえるハズです。
教育の本質は何か
例えばですが、剣術、武術や野球、サッカー、Eスポーツ的な対戦ゲーム。
時代もジャンルも違うように見えますが、技術はそれぞれ全く違えど本質の共通部分はあると思います。
逆に「昔を知っているからこそ見える本質」を伝えることは重要です。
少しだけ学校側を擁護すると、「お茶汲み」自体は凄く大切です。
僕も新スタッフには必ず「掃除と片付け、美味しいコーヒーの入れ方」と指導します。
そこには仕事をしていくに当たって重要な部分があるからです。
大事な事だからこそ、僕も今でもやりますし、やらせます。
会社としても個人としても「目的、目標の実現のために重要」な事だからです。
ある意味、それが一番、効率的で合理的だからです。
ところが「80名分の早朝お茶汲みが一番若い女性の仕事」にはなんら合理性がみえません。
60代、30代、10代の歴史的な位置の違い
最後に「時代の流れを100年ずらすとこうなるぞ」というのを図にしてみました。
大まかなイメージが掴めるようにイラストを貼ってます。
今の60代、30代、10代の人たちが、これくらい時代の差で生きてるんだよ、って言うのが分かると思います。
2020年以降、時代がどうなっていくのか。
リニアくらいしか置いてませんが、どうなるんでしょうね。
楽しみです。
では、また。