岩崎将史です。
欧州の総合芸術の基本ともいえるオペラと歌劇場が登場した経緯について解説です。
オペラハウスの機構や特徴についてはこちらの記事で解説しています。
オペラ登場前後の歴史をまずはざっくりと
オペラハウス登場の歴史を理解するためには、西洋音楽史のざっくりとした知識が必要です。
ヨーロッパ音楽の3つの時代区分
歌劇場が多く登場し発展していくまでの西洋音楽の歴史を、物凄くシンプルにまとめるとこんな感じです。
かなり乱暴ですが…。
- 中世【教会の時代】
- 教会で音楽が取り入れられ盛んに
- 現代の音楽の基礎が発展
- 近世【貴族の時代】
- 貴族の宮殿で室内楽が盛んになる。弦楽器、木管楽器が発展
- 軍隊では金管楽器と打楽器が発展
- 近代【市民の時代】
- 市民が音楽を楽しむようになる
- 楽譜のレンタル業務、音楽出版が盛んになる
年表にするとこんな感じ。
厳密には0:100ではなくグラデーション
音楽の場合、ちょっと時代区分は他の分野とズレていたりします。
ただし、ここでは正確な年代よりも大まかな流れを理解しやすいように分けています。実際にはグラデーションで近世でも近代的な動きは少しづつ始まっています。
0か100ではなありません。その時代の大きな特徴として捉えてください。
宗教の時代についてはこちら
貴族の時代についてはこちら
オペラの登場から発展までの流れ
まずオペラの登場について簡単に解説します。
オペラの定義を音楽と歌とストーリーとするならば、古代ギリシアから始まったという説もあります。
ですが、近代・現代のオペラに直接つながる総合芸術という意味では1500年代のイタリアでした。
当時のヨーロッパ地図はこんな感じです。
オペラはフィレンツェで始まった
オペラの登場はバロック時代、16世紀末にイタリアのフィレンツェで始まったとされる説が有力です。
代表作「オルフェーオ」
その次代の代表作は、作曲家クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)の「オルフェーオ」が挙げられます。
この時代はまだはっきりとした長短音階や機能和声が確率していません。
教会旋法などの色もあり独特の荘厳な雰囲気とラテンの空気があります。
しかしYouTubeで見れる時代になったんですね…。
僕が学生の頃は苦労したものです。
作曲家クラウディオ・モンテヴェルディさんについて
クラウディオ・モンテヴェルディさんのプロフィールはこちら。
クラウディオ・モンテヴェルディ (1567-1643)
- イタリアの作曲家
- マントヴァ公国の宮廷楽長
- ヴェネツィア、サン・マルコ寺院楽長
- ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者
- マントヴァ公国の宮廷楽長
- サン・マルコ寺院学長
この2つはポイントで、宗教の時代から貴族の時代へと変わっていく当時の音楽家の経済的背景を表す例の一つです。
ヴィオラ・ダ・ガンバというのは16世紀から18世紀にヨーロッパで用いられた擦弦楽器で、ヴィオラ・ダ・ガンバとは 脚のヴィオラ という意味。
ヴィオラ・ダ・ブラッチョ と呼ばれるヴァイオリン属が登場してくると廃れた。
当時のイタリアはひとつの国家ではない
クラウディオ・モンテヴェルディさんはイタリアの作曲家ですが、当時はイタリアという国があったわけではありません。
中世のイタリア王国は既に影の様な存在で、都市ごとに独立した政府が自治を行っていました。
1500年頃のイタリアの地図はこんな感じです。
ばらばらです。
地中海貿易ほぼ独占がルネサンスをもたらした
なぜこんなにバラバラになってしまっているかというと色々とありますが、音楽史的なキワードでいうと地中海貿易だと僕は考えています。
特に北イタリア地域の都市国家は地中海貿易をほぼ独占し経済的に余裕があり、独立して十分にやっていくことができました。
都市に住む商人や知識人も経済的余裕が余裕ができ、オペラなどの娯楽への訴求が高まっていきました。
その中でルネサンスが起こり、芸術と科学が大きく進歩していきます。
そのあたりはこちらの記事でも詳しく解説しています。
当初はギリシア神話が中心
オペラが登場し始めた初期はギリシャ神話を扱ったものが中心でした。
ルネサンスはキリスト教に支配された価値観ではなく、古代ローマや古代ギリシアの良き文化をもう一度見直そうという動きから始まりました。
そのためギリシア神話を多くあつかっていました。
中世キリスト教文化はど禁欲的な価値観が多く、ルネサンス文化は自由やエロティシズムを認め科学や芸術面で大きな進歩をもたらしていきます。
イタリア各地へ広がる
次にオペラはやがてローマ、ヴェネツィア、ナポリなど他のイタリア内の国々に広がっていきました。
当時は最高のエンターテインメント
インターネットはもちろんのこと、TVもラジオもない時代でした。
100年ほど前には活版印刷が始まっていたとはいえ、まだ多くの人は書籍でエンターテインメントを楽しめる時代ではありません。
そんな中で、物語と音楽と演技で魅了するオペラは、当時の人にとっては最高のエンターテインメントだったと推察できます。
イタリア各地へ広まっていったのは当然と言えるかもしれません。
この時代のオペラは今のオペラのイメージとは少し違います。
1800年代以降で登場する派手なオペラはグランドオペラとも呼ばれオーケストラ、バレエ、大人数のコロス(合唱隊)、大掛かりな舞台装置などの演出があります。
が、この時代は通奏低音といって歌に対しての簡単な伴奏のみ。
あくまでもストーリ重視でした。
やがてオペラの中心はフランスへ
1600年代になるとオペラはフランスへも広がっていきます。
フランスのオペラは王立
フランスのオペラはイタリアと違い、王立手動であるというのが特徴です。
絶対君主制ですので当然といえば当然ですが。
ルイ14世の裁可で王立オペラ音楽アカデミーが発足しオペラに力が入れられていきます。
ルイ14世
(1638-1715)
ブルボン朝フランス王国第3代国王。
王朝の最盛期を築きルイ大王、太陽王と呼ばれる。
王権神授説を唱え絶対君主制を確立。
ヴェルサイユ宮殿を建設。
ルイ14世やベルサイユ宮殿が良く分かる映画
2名のフランス作曲家
フランスではリュリとラモーの2人の名前が代表的です。
先程のクラウディオ・モンテヴェルディの次の世代になります。
年表にするとこんな感じです。
2人のプロフィールを簡単に見てみましょう。
ジャン=バティスト・リュリ
ジャン=バティスト・リュリ (1632~1682)
フィレンツェ生まれでフランス国籍を取得。
ルイ14世の宮廷楽長で寵愛を受け権勢を極める。
パレ・ロワイヤルの使用権を獲得し他の大規模作品の上演を禁止するなど結構えげつないこともやっている。
リュリのポイントは2つあります。
- フィレンツェ生まれでフランス国籍を後に取得
- ルイ14世の宮廷楽長
つづいてラモーを見てみましょう。
ジャン=フィリップ・ラモー
ジャン=フィリップ・ラモー (1683-1764)
バロック時代のフランスの作曲家。
父はディジョン大聖堂のオルガニスト。青年時代をイタリアやパリで過ごす。財務官ラ・ププリニエール家の後援を得て、作曲の分野において名声を勝ち得ていく。フランス語オペラの作曲家としてジャン=バティスト・リュリに取って代わり「フランス王室作曲家」の称号を獲得した。転回形や機能和声を体系化した理論化。
こちらも、2つのポイントがあります。
- 青年時代をイタリアやパリで過ごす
- フランス王室作曲家
リュリと共通してますよね。
二人ともイタリアに縁がありながら、フランスに居を移して活動しました。
オペラの中心がイタリアからフランスへ移った理由
イタリアからフランスにオペラの中心が移った理由の1つは経済的背景にあると僕は考えています。
スパイスと絹が重要なシルクロードと地中海貿易
イタリア北部が地中海貿易で潤っていた当時の貿易ルートはこんな感じでした。
オスマン・トルコによる交易ルートの遮断
ところがこの交易ルートがオスマン・トルコ帝国により遮断されてしまいます。
1600年代にはオスマン・トルコ帝国が最大版図を獲得するほどに勢力を拡大してきました。
オスマン・トルコ帝国を通過しないと香辛料がと絹を運び込む事ができません。
ヨーロッパ原産の材料だけでは食事が美味しく作れません。
そして、欧州では絹のような薄くて肌触りの良い生地を生産する文化はありませんでした。
1000年代から1300年まで続いた十字軍遠征などにより、キリスト教圏のヨーロッパとイスラム圏のオスマン朝トルコは敵対する関係にありました。
古代から欧州では絹は高級な貴重品。
だからシルクロードと呼ばれアジアとヨーロッパを繋ぐ道はとても重要だったのです。
遠洋ルートでの交易国家が有利に
そうすると地中海ルートではなく、遠洋ルートでの交易を行う国々が有利になります。
初期はポルトガルとスペインでした。
程なく王政を安定させたフランスやイギリスがより強力な体制で進出し取って変わっていきました。
多くのイタリア商人が大航海時代には関与しています。
- ルスティケロ・ダ・ピサ
- マルコ・ポーロ
- クリストファー・コロンブス
- ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)
- ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ
彼らはイタリア出身。
コロンブスはイタリアのジェノバ商人でしたが、ポルトガルやスペインに計画を持ちかけてインド航路(北米)を発見しています。
程なく国内を安定させ絶対君主制を敷いたフランスやイギリスなどが、より強力な体制を整備しポルトガルやスペインに取って代わっていきました。
それから100年後、オスマン・トルコが最大版図を迎えることになり、交易は完全に遠洋ルートがメインになりました。
当時の人々の心理は今に通じる物がある?
僕個人は、こういった状況はいつの時代にも、現代にも通じる物があると感じました。
遠洋交易国家が登っていく中で、過去の地中海交易にしがみつく人たちもいたでしょうし、新たな可能性を求めて本拠地を移動するひともいたでしょう。
新しいルートを求めて、外に出ていく人たちがの心境は現代で言うなら、
- CDの時代は終わった
- これからインターネットの時代
などに通じると感じます。
フランス語のオペラが登場
そうした流れの中で始まったフランスのオペラでしたが、初期はイタリアと同じくギリシア神話が中心でした。
その後ほどなくして王を称える内容などが登場してきます。
王室がお金を出して運営しているので当然といえば当然かもしれません。
そうするとフランス語のオペラが作られるようになります。
イタリア語で王を称えても伝わらないですからね。
転回形や機能和声が登場
音楽性については初期は通奏低音でシンプルでしたが、新しい試みが行われていきます。
特にラモーは音楽理論家でもありました。
転回形や機能和声などの新しいハーモニーの考え方を生み出しながらオペラにも取り入れていきました。
ただし当時は賛否両論があったようです。
今でこそどんな音楽にも当たり前となっているハーモニー理論ですが、当時は耳馴染みの無いものとして受け入れられない人もいたようです。
いつの時代も新しい物には関心を持てる人と持てない人はいるものです。
水戸黄門ドラマのような昔ながらのお決まりのパターンを求めるという人もきっと多かったのでしょう。
神聖ローマ帝国への波及
フランスの2名の後は世代的にはモーツァルトになります。
モーツァルトの出生や主な活動地域は神聖ローマ帝国です。
この時代には神聖ローマ帝国でも独自のオペラが作られ発展していきます。
モーツァルトを中心に神聖ローマ帝国のオペラを見てみましょう。
オペラにおけるモーツァルト
モーツァルトのプロフィールはこちら。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756-1791)
語るまでもない偉大な作曲家。
オペラでは
- フィガロの結婚
- ドン・ジョヴァンニ
- 魔笛
などが有名。
イタリア・オペラの影響を受けた
モーツァルトは神聖ローマ帝国のザルツブルグが生誕です。
僕も訪れたことがありますが、綺麗な街でした。
ザルツブルグは今はオーストリアですが、当時は神聖ローマ帝国の一部。
そして北イタリアの半分も元々は同じ帝国内。
モーツァルトの年代では既に神聖ローマ帝国内ではありませんでしたが、1500年台半ばはこの様な感じでした。
モーツァルトは幼少期に父親と一緒に何度もイタリアを訪れています。
オペラについても相当学んだことが推察できます。
また幼少期のヴェルサイユ宮でのマリーアントワネットとのエピソードも有名です。
当然、イタリアだけでなくフランスのオペラも影響を与えていたはずです。
モーツァルトはその後、プラハ、ウィーンなどを中心に活動しました。
プラハとウィーンは今はオーストリアとチェコで別の国です。
ただし距離は350Kmということで、東京と名古屋と同じ距離感ですね。
僕がプラハを訪れた時は出入国は飛行機で、その後のドイツやウィーンは鉄道やバスだった記憶があります。
こんなに近かったんですね。
モーツァルト・オペラの代表作
YouTubeにいくつかアップされていますので、リンクしておきます。
フィガロの結婚
ドン・ジョバンニ
映画「アマデウス」は必ず見ておこう
1984年に公開された映画「アマデウス」はモーツァルトの生涯や当時と時代背景を分かりやすく学べます。
各映画賞に多く獲得した名作ですので、音楽家であれば必ず一度は見ておくべき映画です。
音大生で映画「アマデウス」をまだ見たことがない人は今すぐ見てくださいね。
ヨーロッパ市民のエンターテインメントへ
モーツァルトの時代はそれまでの王侯貴族が中心から市民の時代になる過程にありました。
王侯貴族の時代にはオペラと同時に宮廷で演奏されるための室内楽などが発展していきました。
貴族と室内楽についてはこちらの記事で解説しています。
とこらがモーツァルトが亡くなる前後、1789年にフランスで革命が発生します。
いわゆるフランス革命です。
このフランス革命から程なく、1806年には神聖ローマ帝国も崩壊します。
経済の主導権が王侯貴族から市民へと変動していく時代でした。
モーツァルトの時代、市民革命の状況が良く分かるもう1つの映画がこちらです。
歌劇場の登場
現代の形に通じるオペラハウスが登場し初めたのは1700年代。
これまで説明してきたような大きな時代の変化の中での登場でした。
オペラハウスが登場するまでは宮廷のホールなどで上演されていましたが、なぜオペラハウスが作られていったのか?
この時代に建設されたオペラハウスを見てくことで、当時の状況がより見えてきます。
イタリアの3大オペラハウス
もっとも初期のオペラハウスはオペラ発祥の国イタリア。
イタリアには多くの歌劇場がありますが、中でも3つのオペラハウスが有名です。
3大オペラハウスの年表を作ってみました。
火災で何度も消失、再建を繰り返したりしています。
サン・カルロ劇場
場所はナポリです。
1737年の開場とのことで相当に古いです。
1816年に火災で焼失して、1817年に再建されています。
スカラ座
スカラ座の名前を聞いたことある人は多いと思います。
ACミランで有名な街、ミラノにあります。
火災で消失したドゥカーレ劇場に変わる1つとして、1776年に誕生しました。
市民たちが再建させた
再建の仕方がポイントです。
バルコニー席を購入している市民がオーストリア公へ要望しました。
当時はオーストリア領というか神聖ローマ帝国ハプスブルク君主国だったからです。
そしてバルコニー席の資金で再建されました。
簡単にいうと市民がお金を出し合って作ったということです。
この時代のイタリアの市民は凄さがわります。
プッチーニの代表作である蝶々夫人やトゥーランドットが初演されています。
フェニーチェ劇場
水の都ヴェネチアにあります。
船の揺れに弱い僕は訪れた際もボートでの移動でしたの往生しました。
僕は海で浮き輪で浮かんでいるだけでも酔て気持ち悪くなるくらい、動く物が苦手です。
この劇場は火災で消失したサン・ベネデット劇場の後継の一つとして誕生しました。
サン・ベネデット劇場は1755年に有力貴族グリマーニ家により建設。一家は他にもサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ、サン・サムエーレ等の劇場も建造。舞台も過去最大で、設備も最上。ヨーロッパの中で始めてとプロセニアムアーチと幕を持った最初の劇場でした。
『イタリアのモーツァルト』によるとモーツァルト父子は1771年2月11日の朝ヴェネツィアに到着し、その日このヴェネツィアで最良のサン・ベネデット劇場にオペラ『シロエ』を見に行ったそうです。
1789年の創建ですが、1836年に火災で焼失。
オペラ上演に特化した形で再建されました。
しかし再び1996年に火災で焼失。
現在のフェニーチェ劇場は2003年に再建されています。
水の都…。
フランス
フランスは王立のオペラ音楽アカデミーが中心でしたので公演場所は宮廷でした。
ルーヴル宮殿などいくつかの宮廷を転々としていたようです。
パリ近郊で専用の歌劇場が出来るのはもっと後の、ナポレオン3世の時代まで待つことになります。
3つの歌劇場を取り上げてみます。
リヨン歌劇場
リヨン歌劇場はフランスオペラでは最初期の専用歌劇場です。
パリでは宮廷が主でしたので、フランスでの単独歌劇場としては最初期になります。
リヨン国立オペラの公演会場でした。
1756年にリヨンで最初の歌劇場として誕生し、1831年に新しい歌劇場へ生まれ変わり、現在の歌劇場は1993年開場の3代目になります。
ガルニエ宮(オペラ座・パリ国立オペラ)
ガルニエ宮はパリ初の専用歌劇場。
宮となっていますが宮廷ではありません。
パリ国立(旧王立)オペラ劇団の13代目の会場。
運営団体と場所の名前が入り乱れているので色々な呼ばれ方をし、オペラ座とも呼ばれることもあります。
革命後のオペラハウス
着工1862年、竣工1875年というこで、完全に革命後のオペラハウスです。
1858年にナポレオン3世が11代目会場のサル・ル・ペルティエ宮で爆弾事件に遭遇したため、安全に鑑賞できる会場として建設されました。
オペラ座と言えば「オペラ座の怪人」が有名です。
このオペラハウスで19世紀に実際に起こった史実を引用しているオペラです。
どうでも良い話ですが、僕がオペラ座の怪人を観たのはパリのオペラ座ではなくロンドン・ウェストエンドででした。
オペラ・バスティーユ
あのフランス革命のバスティーユです。
先の2つのホールよりも100年以上あとの1982年に開場。
もう僕が既に生まれていますので現代のオペラハウスと言えます。
バスティーユ牢獄の跡地にフランス革命200年記念で建設されました。
こんな感じで、デザインが超モダン。
SFみたいです。
神聖ローマ帝国(ドイツ・オーストリア)
神聖ローマ帝国(現ドイツ・オーストリア)は、上記のGIFのようにオペラが広まる頃は基本的に衰退の最中でした。
フランスのような市民革命が起こらなかったので、最後まで形式上の封建制を保っています。
オペラハウスは帝国の威勢を示すために作られました。
- ベルリン国立歌劇場(現ドイツ)
- ウィーン国立歌劇場(現オーストリア)
の2つを見てみます。
ベルリン国立歌劇場(現ドイツ)
プロイセン王フリードリヒ2世の命で1741年起工、1742年開場です。
オペラハウスとしては最初期になります。
当時の名前はベルリン宮廷歌劇場。
とこらが1843年に火災で消失。
本当にこの時代は火事が多いですね。
1844年に新劇場竣工して現在に至ります。
ウィーン国立歌劇場(現ウィーン)
1869年に現在のウィーン国立歌劇場を建設。
モーツァルトの死後から実に80年も経過しています。
帝都の威信を掛けて
当時のオーストリアから北イタリアは先にも書いたように、神聖ローマ帝国系のハプスブルク君主国。首都はここウィーン。ドイツオペラだけでなくイタリアオペラも含めての中心的位置づけの都市。
そこで帝都の威信を示すためにオペラハウスを建設し、ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場と名付ける。
それくらい市民や外国にオペラの影響力、認知度があった時代。
影響力という意味では、僕らの時代だとちょっと前の映画みたいな要素もあったのかも。
現在のウィーンフィルの母体が誕生
専属オーケストラとしてウィーン国立歌劇場管弦楽団が発足し、現在のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体になっています。
よく燃える歌劇場
オペラハウスは頻繁に火災にあっています。
特にイタリアは多かったですね。
主な理由は、次の2です。
- 近代ではペレットストーブ
- 現代では電気工事の配線
電気配線が原因の火災としては昨年は、
- ノートルダム大聖堂
- 沖縄首里城
の火災消失もありました。
歴史に学ばねばです。
火災消失したオペラハウスはその都度、再建されいます。
その再建の仕方がそれぞれの国やオペラシーンの背景を物語っています。
イタリアは市民が手動
イタリアでの特徴は先にも述べたように市民の要望と資金によって設立や再建がされています。
地中海貿易の時代、ひいては古代ローマの時代から根ざす市民の存在が他の国とは凄く違うように感じられます。
フランスは王立、国立
フランスは王立として建設されました。
革命後は国立や公立として建設や再建が行われています。
神聖ローマ帝国は威厳のために
神聖ローマ帝国は帝国の威厳を見せるために建設しています。
帝国崩壊後も劇場や名前は維持され第二次世界大戦後に国立になっています。
オペラハウスの登場と共により大規模なオペラへ発展
オペラとオペラハウスの登場の歴史についてみてきました。
オペラは1800年代以降、市民文化の醸成に伴ってグランド・オペラに代表されるうような、より大規模な総合舞台芸術として発展していきます。
そこについてはまた別の機会に書きたいと思いますが、オペラのその後にミュージカルが生まれた経緯について書いています。
繋がった歴史の流れですので、よかったらお読みください。
また専用の歌劇場の機能や特徴についてこちらの記事に書きました。
舞台の仕事や音作りをする上で、これらはとても重要な知識です。
ということで、また。